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2004,11,24, Wednesday
ばりばりクリスチャン向けの話題でごめんなさい。
23日には、浜名湖畔にある教団のキャンプ場の整備をするキャンプ(なんのこっちゃ)がありました。そこで同じ教団の豊橋ホサナキリスト教会の野町先生に念願かなってお会いすることができました。先生もこのブログをご存知だったみたいで、知らない間にリンクまで張ってくださっていました。私の中では有名人でしたので嬉しかったですねー。 あとね、Noblogの中澤先生もお会いしたい方の一人です。エンジニアパスターですよ。本当に。最近はクリスチャンブログからのpingを受け取って、更新情報が分かるような仕組みやら、リンク集やらを考えておられるようです。楽しみですね。 インターネットを使いこなしている先生を見ると嬉しくなりますね。伝道のツールとしてインターネットは大変有効だと思うんです。教会はなんとなくネットだとかITに疎いイメージがありますが、やっぱりね、もっとネットやITを有効活用していくことを考えていったほうがいいんじゃないかと。しかし、ホームページを持っていない教会の多いこと多いこと。ITに通じている人がいない教会が多いということなんですね。 とはいえ、いろんな方のご意見が聞きたいですね。ネットを伝道のツールとして認識する人が集まって意見交換できる場所をつくれたらいいですね。 のまちゃんのblog [link] Noblog [link]
| イエス・キリスト | 09:46 PM | comments (x) | trackback (3) |
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2004,08,11, Wednesday
クリスチャンって日曜日の朝っぱらから教会に行って聖書を読んでお祈りをしてますね。普通の人だったら、たまのおやすみぐらい家でごろごろしたり、買い物行ったりして息抜きしたいのに、クリスチャンはなんでわざわざ教会なんかに行って聖書を読んでるんでしょ。一信徒の見解を書きます。
困ったときの神頼みなんてよく言います。それはわたしたちから神さまへ語りかける片方向のコミュニケーションですね。本当に神さまとコミュニケーションしたければ、神さまを信じて、神さまの望まれるように生きようとする気持ちが大切なんです。格好よく言えば、「神さまの声を聴く」ってことかな。具体的に言うと「聖書を読む」ということです。信じられないかもしれませんが、その時に神さまとぼくたちの関係は一気に変わり、ぼくたち自身も大きく変えられます。生きることが楽しくなります。だから教会に行って聖書を読むんでしょうね。 ぼくは「今日の聖書」を日記の中でたまに書いています。が、ぼくは神さまの望むように、聖書の通りに生きることはまずできません。いろいろな誘惑があり、失敗があり、裏切り、裏切られ、失望し・・・そうして生きています。自分の力だけでは聖書の言う(神さまが望まれている)善人になり得ないと思ってます。 でもね、神さまにそのことを素直に告白し、神さまの望まれる人間になりたいと神さまに祈れば、神さまは力を与えてくださいます。あなたがどんな人であろうと、神さまはあなたのことを愛しています。失敗ばかりでどうしようもない生き方でも、です。あなたが神さまのことを知り、信じ、神様の望むとおりに生きようと「決めたとき」に、神さまが働いてくださり、人は大きく変えられると信じています。 ・・・ということを踏まえて、「今日の聖書」をお読み頂ければ幸いです。えへ。 |
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2004,05,19, Wednesday
ぼくが神さまだとしたら、ぼくみたいなもんは指ではじき飛ばしますね。
こんなやつでも生かしてくださる本当の神さまに感謝です。すべて感謝しないと。 いつも喜んでいなさい。 |
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2004,05,14, Friday
レゴで出来た教会堂 [link] 参りました。すごすぎます。制作期間1年半。うちの教会より広い気がする。人多すぎ。 Sawney Bean's Cave[source] Noblog [source] |
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2004,05,05, Wednesday
いろんな人とコミュニケートするうちに心が疲れていく。みなさんもそんな経験ないですか? それはあなただけの問題じゃない。周りにも問題があるとぼくは思う。
キャンプで同部屋になったA君とたくさん話をした。A君は仕事もやめて教会の奉仕もやすんでるとのこと。心身ともに疲れたんだそうだ。 A君が集会の奏楽奉仕を担当するときも彼は遅れてきた。部屋ではタバコを吸い(クリスチャンで吸っている人は少ないんです)、いつもうつむき加減。初めてお会いしたときもとっつきにくい感じで、会話も続かない。でも「ぼくはのんびりしてんねん。みんなみたいにあんな風にがんばられへん。疲れる」というようなことを彼は言った。 A君の言うことは痛いほどわかった。「みんなが無理してるんだよ。無理することないよ」って話したら、彼は心を開いていろいろ話してくれるようになった。今は大阪に住んでるけど、沖縄とかハワイとか住みたいということ。うちの教会の子とノンクリスチャンの子と何が違うのかわからないということ。ぼくの冗談にも笑ってくれるようになった。 「神さまは、ありのままの私たちを愛してくださるのだから、無理して飾る必要は無い」とクリスチャンなら教えられてるはずだが、ぼくも含めてみんな思いっきり飾ろうと背伸びをしている。みんなから尊敬されたい、よく思われたいという思いに駆られている。だから奉仕をがんばる。明らかに無理してがんばっている。しかし、そういう人は、心の中でA君のような人を見下し、彼の居場所を無意識に取り上げてしまっているのではなかろうか。 A君にも問題点はあるのかもしれない。しかし、一番問題なのは、自分が尊敬されたい、よく思われたいという気持ちを持った周りの人たちではないだろうか。というか世の中みんながそんな感じだから、時々誰かの心が疲れてしまう。 そんな話をA君と長々とした。 「でもみんな人間だから、しゃあないわなぁ」 「せやな、しゃあないねん」 人とのコミュニケーションの中で心が疲れたときには「周りの人が無理してるんだな。みんな弱い人間だからしょうがないんだなぁ」って思ってみてください。ちょっとは気が楽になるかも。 自省するとともに、彼と周りの人との交わりが神さまによって豊かに祝福されるようにお祈りした。 |
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2004,05,05, Wednesday
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2004,04,26, Monday
教会の人から聞いた言葉。その通りだと思います。人間から出る愛は厳密に言うと愛じゃないのかも。聖書は愛のことを以下のように言っています。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(コリント人への手紙第一13章4-7節) 愛について15書かれているんです。ぼくは2個か3個できるかなぁ。って厚かましくも思っていました。しかし「愛」という言葉を「私」に置き換えて読んでみぃ。と言われて、あー、ひとつも出来ないなぁ。と納得しました。「愛」を「キリスト」に変えて読んでみぃ。と言われて、これはイエスさまのことを言ってることを納得しました。「神は愛である」という聖句もこのことを通してよくわかりました。 ぼくが愛だと思ってたものは愛じゃなったですね。よく考えてみたら、自己満足だったり、見返りを求めていたり・・・。人間から出る愛はみなこのようなものじゃないでしょうか。ぼくらは神さまから出る愛で、人を愛していく必要がある。しかし、これはとーーーーっても難しいことです。だけど、神さまにつながることで、神さまから湧き出る愛を伝えていくことが出来るんだと思います。神さまの愛を伝える。これがクリスチャンの仕事じゃないでしょうか。 だけど、ぼくは神さまからもらった愛を誰にも与えずに全部こぼしています。小学校の時も手で水をすくって運ぶの下手だったし。 |

